昭和50年12月12日 秋山豊吉15年祭
万事お繰り合わせをお願いさせて頂いておりましたら、急に私のここの左の耳が、耳鳴りというかゴーゴーいうように、あの、耳鳴りが起こったんです。どういうことじゃろうかと思うて、またご祈念させて、あの頂いて、それからあの、大払いになって、大払いを一生懸命あの奏上させて頂いておりましたら、その、耳鳴りが、全然耳鳴りが感じなくなってきた。それで大払いが終わってしもうてから、したらやっぱりあの耳鳴りが、あの、しております。それから、あの、どういうことだろうかと思うたらね、今日の御霊様の様子だということを頂いた。
えー、例えば私は、それを頂いてまあ有り難いと思ったことは、御霊ながらにもやはり、合楽の信心ということが、ずーっといつも信心が便乗しておかげ頂いておるということですね。例えばならおじいちゃんの、例えば生前の、ことというたら、あの、( )あることでしょうけれども、けん、あの、三味線のあの一番上のこうしたとこが(テンジン?)といいますよね、あの(テンジン )のない三味線を(頂きました。 ?)それはどういうことかというと、例えばご信心を頂いておったけれどもその、お話は全然聞こえていなかった。(耳鳴り)ね。例え、例えですよ。だから教えは身に付いてなかった。今御霊様になられて、遺族のものが信心させて頂くようになり、いわゆる御霊ながらの助かりがだんだん、いうならば年をおうて段々おかげを頂いてきておる、いう御霊がです、ならまあだ今も、やはり雑音は残っておる。耳鳴りは残っておるけれども、最近のなら合楽の信心で言われる、大払信行なんかということ。は、ね、一生懸命神様に信心を向けさせて、大払いを奏上させて頂いておるうちにです、もうあの願うこともなからなきゃ何もない。神様と交流する心の状態が開けてくるという、最近の合楽の信心修行のことですね、それがそのまま今日私が、耳鳴りが起こって、そしてその耳鳴りが一生懸命の大払い奏上の中にもう、あの全然それを感じなくなり、終わったらやはり感じる。そして、それが今日の御霊の、あのおかげを頂いていっている状態だということがわかった途端にスキッと(?)なったんです。だから私の体のうえに今日の御霊の助かりの様子を教えてくださったと思うんですけど。
霊神様の前にでらせて頂いたらもう名も知れないたくさんな紫の花がね、まだとってきてからちょっと時間おいたから、こなくらいに、こうしとっとがこうなるでしょうが。そしてこれが水につけると段々段々こうしゃんとしてくるでしょう。このしゃんとしてくるところを頂くんです。紫ということは安心ということ。いわゆる喜びの御霊、安心の御霊としての、今日の例えばお祭りはそういう意義にいなった、ね、安心のおかげを頂いておるのが、しかも生き生きとしてきたというね、あの、生前に様々なお粗末ご無礼もあったろうけれども、それも段々お許しを頂くことになり、まあだ、いうならば耳鳴り的なとこも残って折るけれども、一生懸命御霊ながらに心を神様に向けることを段々覚えてきて、おかげを頂いて耳鳴りを耳鳴りと感じんようになったというところまでおかげを頂いておる。そこでなら私共が、ならその耳鳴りというもの、ふっと人間心にかえるとやっぱ耳鳴りがしてるわけですから。この耳鳴りがとれてしまうだけのおかげを頂くのがこれからの楽しみじゃないでしょうかね、御霊としても。また遺族のものとてしても、そこに焦点をめいめいの信心のうえにもそこんところをやっぱ頂いていかんならん、そういうつながりを特に感じましたですね。そういう御霊様のお祭りでした。
池尻てるか